近江町『金澤古蹟志』巻23 城西堤町筋 第9編
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
加賀藩では、金沢市内を「本町(ほんまち)」と「地子町(じしちょう)」に区分し、それぞれに町役(税や義務)の違いがあった。
『博伽雑談(はくかざつだん)』によれば、佐久間盛政(さくまもりまさ)が金沢城に在城していた頃の本町は、「尾山八町(おやまはっちょう)」と呼ばれ、西町(にしちょう)、堤町(つつみまち)、南町(みなみちょう)、金屋町(かなやまち)、松原町(まつばらちょう)、安江町(やすえちょう)、材木町(ざいもくまち)、近江町(おうみちょう) の8つの町がその中心であった。
『三州志来因概覧(さんしゅうしらいんがいらん)』には、尾山八町は佐久間氏の時代に「本町」として定められ、それ以前はすべて「尾山町(おやまちょう)」と呼ばれていたと記されている。
これらの町は、当時の金沢本町の中心地であり、商業や行政の拠点として発展した。
『聞見雑(もんけんざつ)』によると、前田利長(まえだとしなが)の時代に「松伏見弁粉(まつふしみべんこ)」が失われたことが契機となり、人々が加賀へ移住し、金沢八町(尾山八町)が繁栄したと記されている。
また、『博伽雑談』には、**前田利長の時代に「役町(やくまち)七ヶ所」として、笠町(かさまち)、博労町(ばくろうまち)、今町(いままち)、川原町(かわらまち)、大工町(だいくまち)、竪町(たてまち)、石浦町(いしうらまち)**の7つの町が指定されたと記されている。
『三州志来因概覧』によると、慶長4年(1599年)、前田利長が越中(富山)から金沢へ帰還し、金沢の都市が発展する中で、これらの7町が「牛役銀(ふやくぎん)」を納める町として指定されたとある。つまり、この7つの町は「尾山八町」の中で特に重要な本町であり、町役を担う町とされた。
当時の町割記録では、
このように、金沢の町割は大規模に整備されていた。
『三州志来因概覧』には、袋町(ふくろまち)、博労町、今町、川原町、竪町、石浦町の6町が本町に加えられたと記されている。
その後、新竪町(しんたてまち)、博馬町(はくばまち)、鍛冶町(かじまち)、安江木町(やすえぎまち)、石引町(いしびきまち)、御小人町(おこびとまち)、四丁木町(しちょうぎまち)、金屋町(かなやまち)の8町が「半役町(はんやくまち)」とされ、町役の負担を分担する仕組みが整えられた。
この結果、町の分類は以下のようになった。
しかし、元々の「七ヶ所」という名称は長く使われ、後の時代まで呼び習わされた。
『藤四冊定昔(とうしさくじょうせき)』に記された万治2年(1659年)の記録によると、金沢の町割と人口は以下の通りであった。
当時、年中の税徴収や負担は規則に基づいて行われ、人口不足がある場合はその分を補填するための銀銭が徴収された。また、過剰に徴収した場合は還付する制度もあった。
In the Kaga Domain, Kanazawa was divided into “Honmachi” (Main Town) and “Jishochō” (Tax-paying Towns), with distinctions in town duties and taxation.
According to Hakuka Zatsudan, during the time when Sakuma Morimasa resided in Kanazawa Castle, the central district was called “Oyama Hatchō” (Eight Towns of Oyama), consisting of Nishichō (Nishi Town), Tsutsumimachi (Tsutsumi Town), Minamimachi (Minami Town), Kanayamachi (Kanaya Town), Matsubaramachi (Matsubara Town), Yasuemachi (Yasue Town), Zaimokumachi (Zaimoku Town), and Ōmichō (Ōmi Town).
According to Sanshū Shiraiin Gairan, Oyama Hatchō was designated as the main district under the Sakuma clan, and prior to that, all these areas were referred to as “Oyama Town”.
These towns were at the heart of Kanazawa’s main district, serving as major commercial and administrative hubs.
According to Monkenzatsu, during the time of Maeda Toshinaga, many people migrated to Kaga after the loss of Matsufushimi Benko, contributing to the prosperity of Kanazawa Hatchō (Oyama Hatchō).
Additionally, Hakuka Zatsudan states that during the era of Maeda Toshinaga, “Yakumachi Nanakasho” (Seven Duty Towns) were designated, including Kasamachi (Kasa Town), Bakurōmachi (Bakurō Town), Imamachi (Ima Town), Kawaramachi (Kawara Town), Daikumachi (Daiku Town), Tatemachi (Tate Town), and Ishiwuramachi (Ishiura Town).
According to Sanshū Shiraiin Gairan, in Keichō 4 (1599), when Maeda Toshinaga returned to Kanazawa from Etchū (Toyama), the city further developed, and these seven towns were designated to pay “Fuyakugin” (tax duties in silver).
Thus, these seven towns were particularly important within Oyama Hatchō, bearing significant town duties.
At that time, Kanazawa’s town allocation included:
This shows that Kanazawa had a highly structured urban plan.
Sanshū Shiraiin Gairan further notes that six towns, including Fukurochō (Fukuro Town), Bakurōmachi, Imamachi, Kawaramachi, Tatemachi, and Ishiwuramachi, were later incorporated into Honmachi.
Subsequently, eight new towns—Shintatemachi (Shintate Town), Hakubamachi (Hakuba Town), Kajimachi (Kaji Town), Yasuemoku-machi (Yasuemoku Town), Ishibikimachi (Ishibiki Town), Okoibito-machi (Okoibito Town), Shichōgi-machi (Shichōgi Town), and Kanayamachi—were designated as “Hanyakumachi” (Semi-duty Towns) to share taxation burdens.
This reorganization resulted in:
However, the term “Nanakasho” (Seven Duty Towns) continued to be used for a long time.
According to Tōshi Saku Jōseki, in Manji 2 (1659), the town allocation and population of Kanazawa were as follows:
Throughout the year, taxation and duties were imposed based on regulations. If there were population shortages, additional silver taxes were levied, and if excess taxes were collected, they were refunded.
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
広岡町 元禄9年(1696年)の地子町の肝煎裁許状には、「折違町廣岡町」と記されており、『国事昌披問答』にも「廣岡町」「図書町」「古道町」と並んで載せられている。 考えるに、『年代摘要』によると、享保12年(1727年)6月、北廣岡村・長田…
広岡梨畑 廣岡村の土地は、以前は水田ばかりで、畑地はほとんどなかった。しかし、天保の末頃(1830年代後半)から田を潰して梨畑にするようになった。すると土地に適していたのか、梨の品質が良く、特に美味しく育つと評判になった。そのため次第に競う…
広岡五香湯 この薬は、産前産後の薬として「五香湯」と称され、非常に有名である。その製造を行う者は「廣岡五香屋」と呼ばれ、北廣岡村に本家と分家があり、毎月1日から15日までは本家で調合し、16日から月末までは分家で調合していた。この薬の製法は…
『前田創業記』には次のように記されている。 天正十二年(1584年)九月六日、佐々成政が兵を率いて富山城を出陣。九月十一日、能登の吾妻野に進軍し、末森城を急襲しようとした。成政は天神山に陣を敷き、甜屋町に放火した。その日の午後、末森城から飛…
御茶水番人居跡(広岡) 旧い伝承によると、かつてこの地には冷泉が湧き出ており、「御膳水(ごぜんすい)」として藩侯(藩主)が召し上がるための井戸であったという。当時は特に厳重に管理され、井戸のそばには「御茶水番人」として二人の番人の住居があり…
広岡御茶水 この水は、北広岡の村の脇にある放生寺の跡地の近く、小路の往来の脇にある。 『独尾記』によると、寛正3年(1462年)の記録に「石川郡広岡千容院という寺に水があり、『御菩薩池』と呼ばれている」と記されている。おそらく広岡にある御茶…
広岡三郎利成伝 『卑分脈大系図』によれば、林六郎光明の弟である豊田五郎光成の子に弘岡三郎利成がいる。その子として弘岡小三郎利光の名も記されている。また、『阪京軒季日録』の寛正六年(1465年)八月の条に、廣岡九郎という人物が見える。彼も三郎…
広岡村 郷庄分村名帳によると、石川郡戸板郷には南廣岡村・北廣岡村・長田村などがあり、これらの地域を総称して「廣岡」と呼んでいた。 『金澤事必』によれば、ある説として、平岡野の住民たちが豊田郷内に田畑を開拓し、そこへ家を移して村を作った。これ…
帰山助右衛門旧邸『金澤古蹟志』巻8 城外新堂形辺をOCR・画像認識・AIを駆使し現代語、そして英文として令和の現代でも読めるように編集しています。読みにくい箇所など誤認識している箇所もあると思いますがご指摘いただければ修正いたします。編集部…