近江町『金澤古蹟志』巻23 城西堤町筋 第9編
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
『卑分脈大系図』によれば、林六郎光明の弟である豊田五郎光成の子に弘岡三郎利成がいる。その子として弘岡小三郎利光の名も記されている。また、『阪京軒季日録』の寛正六年(1465年)八月の条に、廣岡九郎という人物が見える。彼も三郎利成の子孫であろう。
さらに、林六郎光明は、木曽義仲の時代に源氏の味方となり、平家を討伐したと『源平盛衰記』や『平家物語』に記されている。豊田五郎光成については、『白山宮雅講中記録』の嘉禎二年(1236年)九月七日の白山神事に関する記述に、「豊田光成入道の三男、大夫法橋成舜が地頭職に補任された」とあり、成舜は廣岡三郎利成の弟である。
また、『大野郷訪古記』には、「豊田郷。鎌倉時代。豊田五郎光成はこの地を私領とした。現在の戸板である」と記されている。したがって、豊田郷とは現在の戸板郷のことであり、かつてこの地の地頭職を務めたために、豊田を称号としたのである。
さらに、その子である岡三郎光成は、豊田郷内の岡村を分立し、その地の地頭となったと考えられる。これにより、「岡」を称号とするようになったことが知られている。
この称号は、後に「弘岡」あるいは「廣岡」とも書かれるようになったのではないか。現在の岡氏の苗字は、その後裔にあたるのであろう。
According to the Hibunmyaku Taikeizu (Genealogical Records), Hirooka Saburo Toshinari was the son of Toyota Goro Mitsunari, who was the younger brother of Hayashi Rokuro Mitsuaki. His son was Hirooka Kozaemon Toshimitsu. Additionally, the Hankyo Ken Kijitsuroku (Hankyo’s Chronological Records) mentions a man named Hirooka Kuro in an entry from August of Kansho 6 (1465), who is likely also a descendant of Saburo Toshinari.
Furthermore, Hayashi Rokuro Mitsuaki sided with the Minamoto clan during the time of Kiso Yoshinaka and fought against the Taira clan, as recorded in The Tale of the Heike and The Rise and Fall of the Minamoto and Taira Clans. Toyota Goro Mitsunari is mentioned in the Hakusan Shrine Records, in an entry dated September 7 of Kannen 2 (1236), which states that “Toyota Mitsunari, a Buddhist monk, had a third son named Daibu-Hokyo Jojun, who was appointed as the jitō (land steward) of a certain territory.” Jojun was the younger brother of Hirooka Saburo Toshinari.
Additionally, the Ono-go Koke-ki (Ancient Records of Ono District) states:
“Toyota-go. During the Kamakura period, Toyota Goro Mitsunari controlled this land as his private estate. It is now known as Toita.”
From this, we can infer that Toyota-go refers to the present-day Toita-go. Since he served as the jitō (land steward) of this region, he adopted the name “Toyota” as his official title.
Moreover, his son, Oka Saburo Mitsunari, separated a portion of Toyota-go to establish Oka-mura and became the jitō of this village. This suggests that “Oka” became his new title.
Over time, this title seems to have evolved into “Hirooka” or “Hirooka.” It is likely that the present-day Oka family surname descends from this lineage.
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
広岡町 元禄9年(1696年)の地子町の肝煎裁許状には、「折違町廣岡町」と記されており、『国事昌披問答』にも「廣岡町」「図書町」「古道町」と並んで載せられている。 考えるに、『年代摘要』によると、享保12年(1727年)6月、北廣岡村・長田…
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広岡五香湯 この薬は、産前産後の薬として「五香湯」と称され、非常に有名である。その製造を行う者は「廣岡五香屋」と呼ばれ、北廣岡村に本家と分家があり、毎月1日から15日までは本家で調合し、16日から月末までは分家で調合していた。この薬の製法は…
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広岡御茶水 この水は、北広岡の村の脇にある放生寺の跡地の近く、小路の往来の脇にある。 『独尾記』によると、寛正3年(1462年)の記録に「石川郡広岡千容院という寺に水があり、『御菩薩池』と呼ばれている」と記されている。おそらく広岡にある御茶…
広岡三郎利成伝 『卑分脈大系図』によれば、林六郎光明の弟である豊田五郎光成の子に弘岡三郎利成がいる。その子として弘岡小三郎利光の名も記されている。また、『阪京軒季日録』の寛正六年(1465年)八月の条に、廣岡九郎という人物が見える。彼も三郎…
広岡村 郷庄分村名帳によると、石川郡戸板郷には南廣岡村・北廣岡村・長田村などがあり、これらの地域を総称して「廣岡」と呼んでいた。 『金澤事必』によれば、ある説として、平岡野の住民たちが豊田郷内に田畑を開拓し、そこへ家を移して村を作った。これ…
帰山助右衛門旧邸『金澤古蹟志』巻8 城外新堂形辺をOCR・画像認識・AIを駆使し現代語、そして英文として令和の現代でも読めるように編集しています。読みにくい箇所など誤認識している箇所もあると思いますがご指摘いただければ修正いたします。編集部…