近江町『金澤古蹟志』巻23 城西堤町筋 第9編
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。
伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。
また、『金城深秘録』には、「昔、弓師の近江という者がこの地に住んでいたため、その名にちなんで町名とした」と記されている。どちらの説が正しいかは定かではない。
一方で、近江は「魚見(うおみ)」のことであり、この地に魚市場が作られたことに由来するという説もある。これは、越中国(現在の富山県)の「魚津(うおづ)」という地名と同じ由来だとされる。しかし、魚市場が作られたのは比較的後の時代であるため、この説は誤りであろう。
ちなみに、越中魚津の本来の地名は「小津(おづ)」であった。
また、『町名変異記』によると、寛文11年(1671年)9月16日に金沢の近江町で火災が発生し、三筋の近江町が焼失したと記録されている。さらに、元禄3年(1690年)の火災記録には、「上近江町・下近江町・三番町の三筋すべてが類焼した」と記載されている。現在も「上近江町・下近江町・三番町」の三町が存在している。
This town is one of the eight towns of Oyama and is said to have been established during the era of Sakuma Morimasa.
According to legend, people from Omi Province (present-day Shiga Prefecture) moved to this area and built their first houses, which led to the town being named “Omi-cho.”
Additionally, the Kinjo Shinpiroku (Secret Records of Kanazawa Castle) states that a bowmaker named Omi once lived in this area, and the town was named after him. It is unclear which of these theories is correct.
Another theory suggests that “Omi” actually means “Uomi” (fish viewing) and that the town was named after the fish market established in this location. This origin is said to be similar to that of Uozu in Etchu Province (present-day Toyama Prefecture). However, since the fish market was built at a later time, this explanation is likely incorrect.
Incidentally, the original name of Etchu Uozu was “Ozu.”
Furthermore, the Town Name Variance Record states that on September 16, 1671 (Kanbun 11), a fire broke out in Kanazawa’s Omi-cho, destroying the three districts of Omi-cho. In addition, a fire record from 1690 (Genroku 3) mentions that the fires spread to all three districts: Kami-Omi-cho (Upper Omi-cho), Shimo-Omi-cho (Lower Omi-cho), and Sanban-cho (Third District). These three districts—Kami-Omi-cho, Shimo-Omi-cho, and Sanban-cho—still exist today.
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
広岡町 元禄9年(1696年)の地子町の肝煎裁許状には、「折違町廣岡町」と記されており、『国事昌披問答』にも「廣岡町」「図書町」「古道町」と並んで載せられている。 考えるに、『年代摘要』によると、享保12年(1727年)6月、北廣岡村・長田…
広岡梨畑 廣岡村の土地は、以前は水田ばかりで、畑地はほとんどなかった。しかし、天保の末頃(1830年代後半)から田を潰して梨畑にするようになった。すると土地に適していたのか、梨の品質が良く、特に美味しく育つと評判になった。そのため次第に競う…
広岡五香湯 この薬は、産前産後の薬として「五香湯」と称され、非常に有名である。その製造を行う者は「廣岡五香屋」と呼ばれ、北廣岡村に本家と分家があり、毎月1日から15日までは本家で調合し、16日から月末までは分家で調合していた。この薬の製法は…
『前田創業記』には次のように記されている。 天正十二年(1584年)九月六日、佐々成政が兵を率いて富山城を出陣。九月十一日、能登の吾妻野に進軍し、末森城を急襲しようとした。成政は天神山に陣を敷き、甜屋町に放火した。その日の午後、末森城から飛…
御茶水番人居跡(広岡) 旧い伝承によると、かつてこの地には冷泉が湧き出ており、「御膳水(ごぜんすい)」として藩侯(藩主)が召し上がるための井戸であったという。当時は特に厳重に管理され、井戸のそばには「御茶水番人」として二人の番人の住居があり…
広岡御茶水 この水は、北広岡の村の脇にある放生寺の跡地の近く、小路の往来の脇にある。 『独尾記』によると、寛正3年(1462年)の記録に「石川郡広岡千容院という寺に水があり、『御菩薩池』と呼ばれている」と記されている。おそらく広岡にある御茶…
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帰山助右衛門旧邸『金澤古蹟志』巻8 城外新堂形辺をOCR・画像認識・AIを駆使し現代語、そして英文として令和の現代でも読めるように編集しています。読みにくい箇所など誤認識している箇所もあると思いますがご指摘いただければ修正いたします。編集部…