近江町『金澤古蹟志』巻23 城西堤町筋 第9編
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
この水は、北広岡の村の脇にある放生寺の跡地の近く、小路の往来の脇にある。
『独尾記』によると、寛正3年(1462年)の記録に「石川郡広岡千容院という寺に水があり、『御菩薩池』と呼ばれている」と記されている。おそらく広岡にある御茶水はこの井戸のことではないかと『城南考』に見える。
現在の放生寺の跡地は「善応院」という古い寺院の敷地であることから、縁のある井戸であると考えられる。
この井戸はかつて名高い冷水であり、茶道家たちはこれを名水の一つとして賞賛した。中納言・前田利常の時代には、特に貴重な水として扱われていたため、「御茶の水」と呼ばれるようになった。
現在ではその名もほとんど忘れ去られてしまったが、かつては「走り井戸」であり、井筒(井戸の囲い)よりも高く水が湧き出していた。しかし、現在では水勢が衰え、湧き出すこともなくなり、名井戸の名ばかりが残っているという。
『平天援』によると、『年代摘要』に「貞享7年(1690年)5月、御膳水井戸の棚を修理し、常時使用できるようにせよ」との命があったと記されている。これにより、この時期から「御膳水」として藩主が使用するための水として利用されていたことがわかる。しかし、『改作所記』によれば、元禄年間(1688〜1704年)になってもなお、城中で使用されていたことが以下の書簡から知られる。
正月十五日
内藤市郎兵衛
渡邊彦左衛門 様
永原権丞 様
右の書簡によれば、元禄年間中までは「御膳水」として使用され、城内でも汲み取って利用されていたことが知られる。
This water source is located beside a small road near the remains of Hōjō-ji Temple in North Hirooka.
According to Dokubi-ki, a record from Kanshō 3 (1462) states that there was a temple called Hirooka Senyō-in in Ishikawa District, which had a water source known as Gobosatsu Pond. Jōnankō suggests that the Hirooka Ochamizu may refer to this very well.
The present site of Hōjō-ji Temple is the grounds of an old temple called Zen’ō-in, indicating that the well is likely connected to its history.
In the past, this well was renowned for its cool, pure water. Tea masters considered it one of the finest water sources and highly esteemed it. During the time of Chūnagon (Middle Counselor) Maeda Toshitsune, it was regarded as a particularly precious water source, hence it came to be known as Ochamizu (tea water).
Now, its name has almost faded from memory. However, it was once a hashiri-ido (a type of well where water flows naturally), where water surged above the edge of the well casing. Today, its flow has weakened, and the water no longer rises on its own, leaving only its reputation as a famous well.
According to Heiten’en, an entry in Nendai Yōyaku (Chronological Digest) states that in the 5th month of Jōkyō 7 (1690), “The shelf of the Gozensui well was repaired so that it could be used continuously.” This suggests that during this period, it was still used as Gozensui (water for the lord’s table). However, Kaisakushoki (Records of Renovations) states that even during the Genroku era (1688–1704), it continued to be drawn for use inside the castle, as evidenced by the following letter:
15th day of the 1st month
Naitō Ichirōbyōe
To Watanabe Hikozōemon
To Nagahara Gonjō
The letter above confirms that Gozensui (imperial drinking water) was still in use during the Genroku period and was drawn from the castle’s well.
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
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帰山助右衛門旧邸『金澤古蹟志』巻8 城外新堂形辺をOCR・画像認識・AIを駆使し現代語、そして英文として令和の現代でも読めるように編集しています。読みにくい箇所など誤認識している箇所もあると思いますがご指摘いただければ修正いたします。編集部…