近江町『金澤古蹟志』巻23 城西堤町筋 第9編
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
帰山助右衛門旧邸『金澤古蹟志』巻8 城外新堂形辺をOCR・画像認識・AIを駆使し現代語、そして英文として令和の現代でも読めるように編集しています。読みにくい箇所など誤認識している箇所もあると思いますがご指摘いただければ修正いたします。編集部も完璧なものを提供できているとは思っていません。皆様の知恵と目でより完璧な日本語・英語の「現代版 金沢古蹟志」を作ることができたら本望です。
『延宝の金澤園』を見ると、小姓町・中町の北側にある中村新丞の向かいに、帰山助右衛門の居宅があったと記されている。元禄六年(1693年)の土地台帳には、小姓町に「帰山助右衛門」とある。また、享保九年(1724年)の土地台帳には、小姓町に「山長太夫」と記されている。長太夫とは助右衛門の孫であり、後に「太夫兵衛」と改名している。
享保十六年(1731年)の太次兵衛の由緒帳には、次のように記されている。「曾祖母は小泉勘右衛門の娘であり、名をくすという。彼女は山忠兵衛に嫁ぎ、そこから助右衛門が生まれた。」
助右衛門は幼少のころより優れた才能があり、江戸へ出て、厳有公(四代将軍 家綱公)に仕え、御呉服所に召し出されて職務を務めた。その後、大奥の年寄女中に任命され、十九年間仕えたが、ある事情により助右衛門自身が辞職を願い出た。しかし、これが上意により丁寧に取り計らわれたため、助右衛門は加賀藩へ戻り、家禄が安堵された。そして恩賞として品々を拝領し、正式な許可を得て帰郷した。貞享三年(1686年)三月十日、百四歳で亡くなった。
助右衛門は、寛永十一年(1634年)に父・忠兵衛の跡を継ぎ、遺領五百石を受け継いだ。寛文元年(1661年)には越中国境の関所奉行に任命された。元禄十一年(1698年)二月十日、九十五歳で亡くなった。
助右衛門の妻は宇右衛門の娘で、寛永十三年(1636年)に結婚し、宝永五年(1708年)十月十五日に百三歳で亡くなった。稲葉宇右衛門は稲葉左近の弟である。寛永十七年(1640年)、兄弟ともに切腹を命じられたが、助右衛門もその縁者であったため、同様に切腹を命じられそうになった。しかし、助右衛門の母・くすが厳有公に訴え出て、その申し出が幕府上層部に届き、助命が認められた。その後、助右衛門は無事に職務を全うした。
結果として、母子三人とも長命を保ち、特に助右衛門は百歳を超えて長生きした。これは大変なことであり、「国の始まり以来、このような例はほとんど聞いたことがない。まさに奇人といえる」と記されている。
According to Enpō no Kanazawa-en, the residence of Sukeremon Kaizan was located across from Shinjō Nakamura, on the north side of Koshōmachi and Nakamachi. The land ledger of Genroku 6 (1693) records “Sukeremon Kaizan” in Koshōmachi. Similarly, the land ledger of Kyōhō 9 (1724) lists “Chōdayū Yama” in Koshōmachi. Chōdayū was the grandson of Sukeremon, and later changed his name to Tayūbee.
In the Yui-cho (Genealogy Record) of Taijibee from Kyōhō 16 (1731), it is written:
“My great-grandmother was the daughter of Kan’emon Koizumi, named Kusu. She married Chūbee Yama, from whom Sukeremon was born.”
From childhood, Sukeremon exhibited exceptional talent and traveled to Edo, where he served under Gen’yūkō (Shōgun Tokugawa Ietsuna, the 4th Shōgun). He was appointed to the Gofukusho (Imperial Wardrobe Department), where he diligently performed his duties. Later, he was promoted to Toshiyori Jochū (Senior Lady-in-Waiting of the Ōoku, the Shōgun’s Inner Chambers) and served in that role for nineteen years. However, due to certain circumstances, Sukeremon personally requested to resign. His resignation was handled with great care and courtesy by higher authorities, allowing him to return to the Kaga Domain, where his family estate was secured. As a reward for his service, he was granted various items of appreciation and received official permission to return home. He passed away on March 10, Jōkyō 3 (1686) at the age of 104.
Sukeremon succeeded his father, Chūbee, in Kan’ei 11 (1634), inheriting his estate of 500 koku. Later, in Kanbun 1 (1661), he was appointed Sekisho Bugyō (Checkpoint Magistrate) of the Etchū Province Border. He passed away on February 10, Genroku 11 (1698) at the age of 95.
Sukeremon’s wife was the daughter of Uemon, and they married in Kan’ei 13 (1636). She later passed away on October 15, Hōei 5 (1708) at the age of 103. Uemon Inaba was the younger brother of Sakon Inaba. In Kan’ei 17 (1640), both brothers were ordered to commit seppuku (ritual suicide). Since Sukeremon was related to them, he too was nearly sentenced to the same fate. However, Kusu, Sukeremon’s mother, appealed directly to Gen’yūkō. Her plea reached the upper ranks of the Bakufu (Shogunate government), and Sukeremon’s life was spared. He continued his service without further incident.
As a result, all three—mother, son, and wife—lived exceptionally long lives. In particular, Sukeremon surpassed 100 years of age, which was considered a remarkable feat. Historical records note,
“Since the founding of this country, such an example is almost unheard of. He can truly be called an extraordinary person.”
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
広岡町 元禄9年(1696年)の地子町の肝煎裁許状には、「折違町廣岡町」と記されており、『国事昌披問答』にも「廣岡町」「図書町」「古道町」と並んで載せられている。 考えるに、『年代摘要』によると、享保12年(1727年)6月、北廣岡村・長田…
広岡梨畑 廣岡村の土地は、以前は水田ばかりで、畑地はほとんどなかった。しかし、天保の末頃(1830年代後半)から田を潰して梨畑にするようになった。すると土地に適していたのか、梨の品質が良く、特に美味しく育つと評判になった。そのため次第に競う…
広岡五香湯 この薬は、産前産後の薬として「五香湯」と称され、非常に有名である。その製造を行う者は「廣岡五香屋」と呼ばれ、北廣岡村に本家と分家があり、毎月1日から15日までは本家で調合し、16日から月末までは分家で調合していた。この薬の製法は…
『前田創業記』には次のように記されている。 天正十二年(1584年)九月六日、佐々成政が兵を率いて富山城を出陣。九月十一日、能登の吾妻野に進軍し、末森城を急襲しようとした。成政は天神山に陣を敷き、甜屋町に放火した。その日の午後、末森城から飛…
御茶水番人居跡(広岡) 旧い伝承によると、かつてこの地には冷泉が湧き出ており、「御膳水(ごぜんすい)」として藩侯(藩主)が召し上がるための井戸であったという。当時は特に厳重に管理され、井戸のそばには「御茶水番人」として二人の番人の住居があり…
広岡御茶水 この水は、北広岡の村の脇にある放生寺の跡地の近く、小路の往来の脇にある。 『独尾記』によると、寛正3年(1462年)の記録に「石川郡広岡千容院という寺に水があり、『御菩薩池』と呼ばれている」と記されている。おそらく広岡にある御茶…
広岡三郎利成伝 『卑分脈大系図』によれば、林六郎光明の弟である豊田五郎光成の子に弘岡三郎利成がいる。その子として弘岡小三郎利光の名も記されている。また、『阪京軒季日録』の寛正六年(1465年)八月の条に、廣岡九郎という人物が見える。彼も三郎…
広岡村 郷庄分村名帳によると、石川郡戸板郷には南廣岡村・北廣岡村・長田村などがあり、これらの地域を総称して「廣岡」と呼んでいた。 『金澤事必』によれば、ある説として、平岡野の住民たちが豊田郷内に田畑を開拓し、そこへ家を移して村を作った。これ…
帰山助右衛門旧邸『金澤古蹟志』巻8 城外新堂形辺をOCR・画像認識・AIを駆使し現代語、そして英文として令和の現代でも読めるように編集しています。読みにくい箇所など誤認識している箇所もあると思いますがご指摘いただければ修正いたします。編集部…