近江町『金澤古蹟志』巻23 城西堤町筋 第9編
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
『金澤古蹟志』金澤古蹟志 巻九 城東小立野台上「蓮池考」をOCR・画像認識・AIを駆使し現代語、そして英文として令和の現代でも読めるように編集しています。読みにくい箇所など誤認識している箇所もあると思いますがご指摘いただければ修正いたします。編集部も完璧なものを提供できているとは思っていません。皆様の知恵と目でより完璧な日本語・英語の「現代版 金沢古蹟志」を作ることができたら本望です。
蓮池という名称は、古くからあるものではない。「御盤(ぎょばん)」という名前の池があり、その近くの土地だったため、後の時代に「池」と音を取って「蓮池(れんち)」と呼ばれるようになった。この「蓮池」という名称が定着したのは比較的後のことである。
この池は、かつては単なる空き地であり、現在のように水が張られていたわけではなかった。しかし、寛永9年(1632年) に微妙公が水道を開通させたことにより、水が引かれるようになったことが記録されている。開屋政春の「古兵談」にも、このことが記されている。
この蓮池の土地には、天徳夫人が移り住んで以来、江戸町と称されるようになり、周辺の人々の住居が建てられた。また、古い記録では、この地に作事場(建築作業場)があったことが記されている。御年譜によると、萬治2年(1659年) 7月に作事所が改築されたことが記録されており、この地がかつて作業場であったことがうかがえる。
文音家の見聞集によると、萬治2年(1659年) 7月に細作事所(建築工事の細かい作業を行う施設)が奥村河内清の門前の空き地に建設されたとあるが、これも同じ場所のことを指していると思われる。このころ、奥村河内の住居は現在の野校(詳細不明)の地にはなく、まだこの地にあったためである。
その後、この地は 元禄9年(1696年) に移転された。元禄の時代に、この作事所が建てられたころには、すでに江戸町の住民たちの住居も整理されていたと思われる。蓮池御殿は、延宝4年(1676年) 4月に建設された記録があり、この時、金子安衛門・中村兵左衛門らが奉行を務めた。
この御殿は、当初、御座敷(接待などを行う場所)として建設されたが、その後、重要な建物としての位置づけが強まり、正式に「御殿」と呼ばれるようになった。しかし、それ以前の時代には「西江戸町御導(にしえどちょうおんみち)」や「押立蓮池御殿(おしたてれんちごてん)」といった名称が用いられていたことが記録に残っている。
この蓮池御殿の役割について、貞享3年(1686年) 8月15日には、大老をはじめとする高官たちが池のそばで観覧を行い、宴席が設けられたことが記録されている。また、夜には詩歌の会が催され、奥村府腔(不詳)父子が詩を詠んだと伝えられている。このことから、池の周辺には馬場なども整備されていたことが推察される。
元禄9年(1696年) 8月11日には、松盤公が江戸から帰藩し、すぐに蓮池御殿へ入った。このとき、藩の年寄(家老職)らと会議を開き、8月17日には、三州に大飢饉が発生していたため、倉を開いて困窮する民を救済したことが記録に残っている。
また、元禄7年(1694年) 6月に、金城(詳細不明)二の丸の造営が始まり、これが大規模な工事であったことが記録されている。完成後は、一の丸へ移動する形となった。このころ、現在の解校(詳細不明)の地には、横山山城・奥村河内・横山右近の三軒の屋敷があったが、元禄の時代にこれらの屋敷が蓮池御殿の用地として整理された。
貞享3年(1686年) 5月3日には、この蓮池で弓射の行事が行われ、射手10名が命じられ、射技を披露したことが記録されている。その後も、年寄(家老職)らが紅葉狩りを楽しむなどの行事が催されていた。これは徳公の命によるものであり、詩歌が詠まれるなど、文化的な催しが行われたことが記録されている。
このように、蓮池は単なる池ではなく、歴代藩主や高官たちの集う場であり、重要な役割を果たしてきたことがわかる。
卯月晦日(4月末日)富田痴龍(とだちりゅう)翁 記す
なお、富田氏は 文政元年(1818年) 12月17日に73歳で没し、生前は「痴龍翁」と号していた。幕府より養老料として500石が与えられ、翌年には74歳となるはずであった。
The name “Renchi” (蓮池) was not originally used. There was a pond called “Gyoban” (御盤), and because this land was near it, the name “Renchi” was later adopted by taking the sound of “pond” (池, “chi”). This name became established relatively late.
Originally, this pond was just an empty land and did not have water like today. However, in Kan’ei 9 (1632), Lord Bimyō opened a waterway, allowing water to flow in, which is recorded in historical documents. This event is also noted in Koheitan (古兵談) by Kaiya Masaharu (開屋政春).
After Lady Tentoku (天徳夫人) moved into this area, the land became known as Edomachi (江戸町), and houses for the residents were built. Additionally, ancient records state that a construction site (作事場) existed here. According to the Gonenpu (御年譜), in Manji 2 (1659), the construction office was rebuilt in July, confirming that this land was once used for construction work.
According to the Bunonke Kenmonshū (文音家見聞集), in Manji 2 (1659), a saisaku jisho (細作事所, a facility for detailed construction work) was built on an open lot in front of Okumura Kawachi Kiyoshi’s (奥村河内清) residence. This location appears to be the same as the previously mentioned one. At that time, Okumura Kawachi’s residence was not yet located at the current site of Yagakkō (野校, unclear location) but was still in this area.
Later, in Genroku 9 (1696), this land was relocated. By the time this construction site was established in the Genroku era, the houses of the Edomachi residents had likely already been rearranged. The Renchi Palace (蓮池御殿) was built in Enpō 4 (1676) in April, with officials Kaneko Yasueimon (金子安衛門) and Nakamura Hyoeimon (中村兵左衛門) overseeing the construction.
Initially, this palace served as a gozashiki (御座敷, a reception hall), but later it took on greater significance and became formally referred to as “Goten” (御殿, palace). However, before that, names like “Nishi Edomachi Onmichi” (西江戸町御導) and “Oshitate Renchi Palace” (押立蓮池御殿) were used, as recorded in historical texts.
Regarding the function of Renchi Palace, on Jōkyō 3 (1686), August 15, high-ranking officials, including the Tairō (大老, senior elder), gathered by the pond for a viewing, and a banquet was held. It is recorded that in the evening, a poetry recital took place, where Okumura Fukō (奥村府腔) and his son composed and presented their poems. This suggests that there was also a horse-riding ground (馬場) near the pond.
On Genroku 9 (1696), August 11, Lord Shōban (松盤公) returned from Edo and immediately entered Renchi Palace. He then held a meeting with the senior retainers (Toshiyori, 年寄), and on August 17, in response to a severe famine in Sanshū (三州), the warehouses were opened to provide relief to the suffering population.
In Genroku 7 (1694), June, the construction of the second bailey (二の丸) of Kanazawa Castle (金城) began. This was a large-scale project, and after its completion, the retainers moved to the first bailey (一の丸). At that time, the current site of Kaikō (解校, unclear location) was home to the residences of Yokoyama Yamashiro (横山山城), Okumura Kawachi (奥村河内), and Yokoyama Ukon (横山右近). However, during the Genroku period, these estates were reorganized as official residences for the Renchi Palace.
On Jōkyō 3 (1686), May 3, an archery event took place at Renchi, where ten archers were appointed to demonstrate their skills. Subsequently, senior retainers (Toshiyori) also attended momijigari (紅葉狩り, autumn leaf viewing) events. These cultural gatherings, including poetry recitals, were held under the orders of Lord Toku (徳公).
From this, it is evident that Renchi was not merely a pond but served as a significant venue where successive lords and high-ranking officials assembled, playing an important role in governance and cultural activities.
April Last Day (卯月晦日)
Recorded by Tomita Chiryu (富田痴龍翁記す)
Furthermore, Tomita (富田氏) passed away on Bunsei 1 (1818), December 17, at the age of 73. During his lifetime, he was known by the name “Chiryu-ō” (痴龍翁). The shogunate granted him an annual pension of 500 koku, and he would have turned 74 the following year.
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
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帰山助右衛門旧邸『金澤古蹟志』巻8 城外新堂形辺をOCR・画像認識・AIを駆使し現代語、そして英文として令和の現代でも読めるように編集しています。読みにくい箇所など誤認識している箇所もあると思いますがご指摘いただければ修正いたします。編集部…