金沢の百科事典『金澤古蹟志』を作った森田柿園(森田平次)

江戸時代の金沢を知る際に必ず参照されるのが「金澤古蹟志」である。この書物は、江戸期の金沢駅を含む金沢の歴史や文化を知る上で欠かせない資料であり、その著者が森田柿園(本名:森田平次)である。森田柿園は、「金澤古蹟志」をはじめとする数々の郷土研究を通じて石川県に多大な貢献を果たした人物である。

「金澤古蹟志」は明治24年(1891年)に執筆され、昭和51年(1976年)には日置謙(へきけん)による校訂版が歴史図書社から再版されている。現在手に入る「金澤古蹟志」は、この昭和51年版である。森田柿園の唯一の写真は、彼が明治41年(1908年)12月1日に86歳で他界する半年前に撮影されたものである。

森田家の金沢における歴史は、元祖である森田武右衛門が柿木畠に住み始めたことから始まる。森田武右衛門は越前国吉田郡森田村(現在の福井市周辺)出身で、その地域には現在も福井駅の隣に「森田駅」が存在している。森田柿園は明治の戸籍法により「森田平次」という名を持つが、平之祐(へいのすけ)、良見(よしみ)、そして柿園(しえん)など複数の名で呼ばれていた。「柿園」という名前は、森田家の八代目である作左衛門(さくざえもん)が家を「柿園舎(しえんしゃ)」と名付けたことに由来する。この名は現在も金沢に残る町名「柿木畠」にその痕跡をとどめている。晩年、森田柿園も金沢の柿木畠に住んでいた。

森田柿園は、加賀藩の「家録編集係」や「蔵書調査係」として仕え、さらに「御前講」の任も受けるなど、藩主前田家のために多くの仕事を行った。蔵書調査が終了した後、前田家の蔵書を自宅に借り受け、それを基に加賀藩をはじめとする金沢の歴史研究に没頭した。森田柿園の最大の功績とされるのが、1872年に「白山論争記」を執筆したことである。この記録がきっかけとなり、白山が石川県の管轄となる道を開いた。

森田柿園の著作や収集本は、現在「森田文庫」として石川県立図書館に保管されており、彼の数々の功績を目にすることができる。その仕事は石川県の歴史研究において重要な基盤を築き、今なお高く評価されている。

森田 柿園
出典:『晩年の森田柿園その二』
石川郷土史学会々誌  第29号鈴木雅子
森田柿園が執筆した『金澤古蹟志』
 西暦和暦内容
1823年文政6年生まれる
1868年慶応4年加賀藩に仕える
1869年明治2年前田家「家録編集係」となる
1870年明治3年前田家の「御前講」をたまわる
1871年明治4年前田家の「蔵書調査係」をたまわる
1872年明治5年蔵書調査終了し前田家蔵書を自宅に借用
1872年明治5年「白山論争記」を執筆し白山が石川県の管轄となる
1876年明治9年石川県を辞職(54歳)
1891年明治24年「金澤古蹟志」執筆 (68歳)
1908年明治41年12月1日没

参考文献

  • 『金沢駅のゆくたて』小西裕太
  • 『晩年の森田柿園その二』石川郷土史学会々誌  第29号鈴木雅子