近江町『金澤古蹟志』巻23 城西堤町筋 第9編
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
『金澤古蹟志』巻八第三編城外新堂形辺「小将町」をOCR・画像認識・AIを駆使し現代語、そして英文として令和の現代でも読めるように編集しています。読みにくい箇所など誤認識している箇所もあると思いますがご指摘いただければ修正いたします。編集部も完璧なものを提供できているとは思っていません。皆様の知恵と目でより完璧な日本語・英語の「現代版 金沢古蹟志」を作ることができたら本望です。
元禄六年(1693年)の士帳(武士の名簿)には、小姓町の区域は「御小姓町」と記されている。この時代には「如新(じょしん)」と呼ばれていたと聞く。館の記録によると、かつて黄門・利常卿の時代に、小姓組の諸士をこの地に集めて住まわせるために、小姓組頭の脇田九兵衛をはじめとする小姓組の者たちに屋敷地が与えられた。そのため、当初は「御小姓町」あるいは「小姓紫町」と呼ばれ、後に「小姓町」と称するようになったという。
また、かつて脇田九兵衛直賢(なおかた)が小姓組頭に任命され、小姓町に屋敷地を賜った。これは微陽公(前田光高)の時代のことであるという。さらに、万治三年(1660年)に記された脇田家の記録によると、寛永某年(1624年~1645年)の五月に脇田が小姓頭を拝命し、知行二百石を賜ったとある。また、神尾主殿が江戸から光高君(前田光高)の御持参役として金沢に来た際、前田出雲守がその旨を申し渡したという記録も残っている。
さらに、陽公(前田光高)御代の出来事として、ある日、松の途中(外出の際)に光高公が乗馬を楽しんでいた際、ある者が召し出された。しかし、その者について疑わしい点があり、父母や妻子に至るまで処分されたと伝わっている。
このことから推察するに、これは寛永末年(1640年代後半)のことであり、脇田九兵衛直賢が小姓組頭に任じられた頃の出来事であると考えられる。したがって、小姓町の小姓組の者たちは、少将・光高君の時代に任命された小姓たちであり、その時に「小姓町」という町名が生まれたのではないかと推測される。
According to the Shichō (samurai registry) from Genroku 6 (1693), the area of Koshōmachi was referred to as Gokoshōmachi (御小姓町). It is said that during this period, it was called Joshin (如新). According to the records of the Yakata (residence), during the time of Kōmon, Lord Toshitsune (黄門・利常卿), samurai of the Koshō-gumi (小姓組, Page Corps) were gathered and settled in this area. As a result, Wakita Kyūbei (脇田九兵衛), who was the Koshō-gashira (小姓頭, Head of the Page Corps), along with other Koshō-gumi members, were granted residential land. Therefore, in the early days, the area was called Gokoshōmachi or Koshōmurasakimachi (小姓紫町). Later, it came to be known simply as Koshōmachi.
At one point, Wakita Kyūbei Naokata (脇田九兵衛直賢) was appointed as the Head of the Koshō-gumi, and he was granted land in Koshōmachi. This was during the reign of Miyō-kō (微陽公, Lord Maeda Mitsutaka). Furthermore, according to a record of the Wakita family, written in Manji 3 (1660), it is stated that in a certain year of Kan’ei (1624–1645), in May, Wakita was appointed as the Head of the Page Corps and granted a stipend of 200 koku. Another record mentions that when Kamo Tōno (神尾主殿) came from Edo as an attendant of Lord Mitaka (前田光高, Maeda Mitsutaka), Maeda Izumo-no-kami (前田出雲守) issued the official order.
Additionally, an incident during the reign of Yōkō (陽公, another name for Maeda Mitsutaka) is recorded: One day, during a horseback excursion in a pine forest, Lord Mitsutaka summoned a certain individual. However, due to suspicions regarding that person, his parents, wife, and children were also punished.
From these accounts, it can be inferred that this event took place in the late Kan’ei period (late 1640s), around the time Wakita Kyūbei Naokata was appointed as Head of the Koshō-gumi. Therefore, it can be assumed that the members of Koshōmachi’s Koshō-gumi were appointed during the time of Lord Mitsutaka, and that this was when the name Koshōmachi was first used.
近江町 この町は尾山八町の一つであり、佐久間盛政の時代に設けられた町名であるという。 伝承によれば、かつて近江国(現在の滋賀県)の人々がこの地に移り住み、初めて家屋を建てたため、「近江町」と名付けられたとされる。 また、『金城深秘録』には、…
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